本宮にて祀る神の紹介/参拝順序

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    観音仏祖

    ♦生誕日:2月19日(旧暦)♦



    観音仏祖は元の名前を「觀世音菩薩」と言い、法号は「観音」、民間では「仏祖」の尊称で呼ばれています。法号である「観音」は元々「観世音」でしたが、唐代に太宗李世民の名と重なることを避けるために「世」が取り除かれ、「観音」となったとされています。大乗仏教の経典によると、一部の菩薩は古代に仏となり、これらは衆生(すべての生き物)を深い慈悲をもって救済するため、人間界に近い菩薩の身となりました。観世音菩薩はそのうちの一人です。 仏教の経典によると、観世音菩薩は慈悲が深く、人々が観世音菩薩の聖名を心から唱えるとその人々の声を観じてただちに救済し、苦しみから解放して幸せへと導きます。昔の人々は 「大慈大悲観世音菩薩」と呼び、「すべての家族に阿弥陀、すべての家庭に観世音」と言われるほど仏教で最も知名度が高い大菩薩として親しまれています。
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    善財

    ♦生誕日:観音仏祖と同日♦



    善財は仏陀の弟子です。生まれた時、室内に自然に財宝が湧き現われたことからこの名が付けられました。善財は華厳経『入法界品』の中心人物である求道の菩薩です。修道の段階を示したものとして、模範生として、古くから仏教徒たちに親しまれています。善財は福城の東、荘厳幢娑羅林で文珠菩薩の説法を聞いて仏道を求める心を発し、その指導によって南方に53人の善い指導者を訪ねて遍歴し、再び文珠のもとに戻り、最後に普賢菩薩の教えによって悟りを開き、修行を完成しました。本宮の観音菩薩の横に立っている笑顔の少年は善財童子で、その反対側には龍女尊者(金童玉女)が立っています。
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    竜女

    ♦生誕日:観音仏祖と同日♦



    竜女は元々竜宮にいる沙伽羅龍王の娘で、宮では善財童子と共に観世音菩薩に仕えています。『妙法蓮華経』巻五の最初の品名である、≪提婆達多品≫に記された物語によると、文殊師利菩薩は自ら法華経を説いて教化してきた8歳の竜女が不退転の境地を得ており、速やかに成仏できると説いたが、智積菩薩は歴劫修行の果てに釈尊は仏になったと述べ、信じようとしませんでした。そこへ竜女が登場し、自分が成仏することはただ仏だけが証明し知られるだろうという偈を述べました。しかし、今度は舎利弗が女身はけがれていて法の器はなく、また五つの障りがあるとして、信じようとしませんでした。そこで、竜女は聴衆の前でたちまちに男子に変身して成仏し、妙法を説く姿を示してみせました。これを目の当たりにした智積菩薩や舎利弗、すべての聴衆はついに竜女の成仏を信受するに至ったと言います。仏教の慈悲深さを表すため、竜女は再び女児の身となり、善財と共に観世音菩薩の仕者となりました。竜女はまたの名を「金童玉女」と言います。
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    弥勒仏祖

    ♦生誕日:1月1日(旧暦)♦



    「弥勒仏」は仏教において「歓喜菩薩」とされ、姓は阿逸多(あざな)です。「弥勒」はサンスクリット語で慈悲深いの意味があるため、慈氏菩薩(“慈しみ”という名の菩薩)とも意訳します。また、「弥勒」は現時点では兜率天に待機中であり、釈迦入滅から56億7000万年後の未来の世に仏となって下界へと降りて釈迦の救いに漏れた衆生たちを救うとされる「未来仏」です。五代の時代には布袋和尚が弥勒の化身とされ、「長汀子」と名乗ったとされています。民間ではしきりにその図像が描かれ、今日に至るまで布袋の姿が弥勒仏の像となっていることがあります。この布袋は日本では七福神の一神としても信仰されており、大きな袋を背負った太鼓腹の僧侶の姿となっています。「彌勒真彌勒,化身千百億,時時示世人,世人皆不識(弥勒菩薩は布袋や色んな人に変身して世に降りてくるが、この世の者は誰もそれ知らない。)」という言葉があります。
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    註生娘娘

    ♦生誕日:3月20日(旧暦)♦

    註生娘娘(通称『註生媽』)は、妊婦や乳児、不妊症の人々の護る生育の神とされています。註生娘娘の神像は、主に左手に帳簿、右手に筆を持っており、各家庭の跡継ぎについての記録を象徴しています。『封神演義』によると、註生娘娘は亀霊聖母の優れた弟子であった雲霄、碧霄、瓊霄であると記載されています。「註生娘娘」とは、実はこの三人が一人となって統合した呼び方となります。註生娘娘は「子授けの神」とも称されており、所属する「十二婆姐」は、またの名を「十二褓姆」或いは「十二延女」と言います。
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    十二婆姐

    ♦生誕日:註生娘娘と同日♦



    『福建閩部別記』の記録によると、陳靖姑は許真君法師から各門の道法を伝授された後、閩王王廷彬を邪悪な意志から開放して皇后と36人の宮女を救出しました。その後、閩王からお礼として陳靖姑に弟子として送られた36人の宮女を「三十六婆姐」と呼び、各々邪気の駆除・災難除け・妊婦への救助、子授けなどの能力を持てるようにしました。毎年旧暦の1月15日は、三十六婆姐が3つのグループに分かれ、祈願すれば苦しみから解放して必ず救ってくれるという日となっています。台湾の人々は、「十二婆姐」が女性の病気を治すだけでなく、子どもの服・食・住・行い・恐怖・夜泣き・病気や痛みなどの問題について救いの手を差し伸べてくれると信じています。「婆姐」は生育の神とも呼ばれ、一般的には註生娘娘の両側で祀られています。
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    関聖帝君

    ♦生誕日:6月24日(旧暦)♦

    関聖帝君は三国志に出てくる関羽を神格化したもので、名を「關名羽」、字は「雲長」です(かつて中国人は個人に特有の名として「姓(氏)」と「諱(名)」と「字」の三つの要素を持った)。関羽は河東郡解県(山西省南部)の出身で、162年6月24日に生まれ、219年12月7日にこの世を去りました。『台灣省通志』によると、台湾における関聖帝君への信仰は延平郡の王である鄭成功から始まったと記載されています。関羽は、高名な武将であったため、最初は武神として信仰されていました。しかし、義理や信義に厚い人物だったことから財神として、そして元は塩の密売に関わっていたという民間伝承があり、さらにはそろばんや売買の勘定を記す大福帳を開発したという俗説も存在し、山西商人にとって地元の英雄であったというから商売の神としても信仰されています。また、歴代数々の朝廷の封賜を受けたことや、道教・仏教・儒教の三教で広く祀られていることから、関聖帝君には数多くの呼び名が存在します。
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    関平

    ♦生誕日:関聖帝君と同日♦

    関平は、関羽の左右に付き従っている二人のうちの一人です。『三国志』のなかで、父親である関羽の軍勢が荊州において、曹操軍の曹仁・孫権軍の呂蒙らの軍と戦った時に随行し、孫権軍に捕縛され関羽と共に首を討たれたと記されています。関羽は死後に神格化され、多くの廟で祀られています。関羽の右側に立ち、神像は顔が少しピンクがかった色白で、唇はまるで油が塗られているようにつやがあり、若くハンサムな青年の見た目をしています。
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    周倉

    ♦生誕日:関聖帝君と同日♦



    周倉は、関羽の左右に付き従っている二人のうちの一人です。『山西通志』の記載によると、出身は関西地方(涼州)で、元は黄巾の乱に参加した黄巾党の一員でした。黄巾の乱に敗れた後に関羽と出会い、以後死ぬまで行動を共にすることになりましたが、その後麦城を包囲する孫権軍に切り取られた関羽親子の首を見せられた周倉は、城壁から飛び降り自殺しました。関羽は死後神格化され、様々な廟で祀られています。周倉の神像の左手には関羽の青龍偃月刀を握っています。周倉は人々に「周大將軍」と呼ばれ親しまれています。
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    孚佑帝君

    ♦生誕日:4月14日(旧暦)♦



    呂洞賓の俗名は「呂巖」と言います。民間では一般的に「孚佑帝君」、「呂純陽」、「純陽夫子」、「仙公」、「呂祖」などと呼ばれ、道教においては「妙道天尊」、仏教では「文尼真仏」と称されます。民間伝説では八仙の一人とされ、呂洞賓は「五文昌」の一人でもあるので、よく関公、朱衣夫子、魁星及び文昌帝君とともに祀られています。また、元の時代には「純陽演正警化孚佑帝君」の名に封じられ、この名は「孚佑帝君」の由来となっており、儒教・道教・仏教の三界で広く祀られています。
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    司命真君

    ♦生誕日:8月3日(旧暦)♦

    灶神は俗称「灶君」、またの名を「司命真君」、「灶君公」、「護宅天尊」、「灶君爺」、「灶王」と言い、一家の禍福を司る神です。正式名称は「東廚司命九霊元王定福神君」で、中国の商の時代に台湾へと伝わりました。神話的な諸神や宗五祀の他に、五つの儀式である五祀(戸一、灶二、中霤三、門四、行五)というものがあり、灶神は生活神の中の一人となっています。このことから、灶神を祀る習慣には長い歴史があることが分かります。旧歴の12月の24日は、灶神が人間界を離れて天に昇ってその家の過去一年間の行ないを玉皇大帝に報告する日となっています。そのため、この日台湾の家庭では人々はよい報告をしてもらうために「送灶神」という儀式を行います。
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    福德正神

    ♦生誕日:2月2日(旧暦)♦



    福德正神は通称「土地公」として親しまれており、「伯公」、「福德爺」、「大伯爺」、「后土」、「土地」などと呼ばれています。『左伝』や『礼記』などの記載によると、中国では古くから土地神を崇拝していました。その由来は、大地への敬意と感謝を示すためのもので、次第に自然という対象を神格化して扱うようになりました。『台湾省通志』によると、民間信仰ではその後福德正神が豊作や商売繁盛、交通安全、お墓の保護、災いを寄せ付けないなど様々な面で神からのご加護があるとされ、人々に崇められたと記されています。