道教の教えに則り、神々や先祖を崇拝
厳かな雰囲気をまとう寺院が佇む松山奉天宮では、皆さまに幸福がもたらされますよう厳粛で神聖な儀式を執り行っております。また、神を尊重し、慈愛の精神をもって困っている方々へ支援の手を差し伸べるなど様々な公益慈善事業を行うほか、人々の心を清め調和のとれた安定した社会を築くために精神力を高めるための美的・道徳的な教えをといています。「道法自然(道は自然に従うもの)、尊天敬地(天を尊び地を敬意)」の思想に則り、人々のパワーを集結させ、自然を尊重して環境に配慮をすることで自然や生命を豊かにさせ、この地球はより持続可能な発展を遂げていくのです。
交通アクセス
松山奉天宮は、台北101の東にある四獣山(虎山・豹山・獅山・象山)の麓に位置します。
四獣山の一つである虎山歩道の登山口は本宮にあり、虎山は市民に人気のハイキングコースということでいつも賑わっています。
付近にはさらに拇指山や筆架諸山などの山々があり、繁華街の信義エリアも近いです。松山奉天宮の背後には緑の山々が聳え立ち、澄んだ水が流れています。遠くには陽明山系統である大屯山・七星山・紗帽山、そして觀音諸山峰を見渡せます。また、松山奉天宮付近には学校やレストラン、市場などが多く点在しており、美しい自然や文化遺産が見られるだけではなく、学業や衣食住に必要な施設がすべて揃うエリアでいつも活気が溢れています。そのなかでも虎山は、市民にとって心を落ち着かせるのにとても良い場所となっているようです。
松山奉天宮の歴史
玉皇大帝と名誉ある神々
清朝の同治元年(1862年)、単身で渡台したある唐山人が、虎山にある洞窟の入口の石壁に石香炉を彫り、赤絹に「玉皇上帝暨列位尊神(玉皇上帝と神々を祀る)」と記した碑文を掲げました。村人たちは毎日お線香を焚き誠心誠意、信仰心をもって参拝していたところ、お線香の煙は不思議なことに全く途絶えませんでした。
その後、村人たちは日本統治時代に神殿を建てる予定でしたが、日本政府による皇民化運動が開始されたことにより台湾の神々への崇拝が禁止となり、さらには洞窟が日本軍によって占領され、大型の防空壕として使用されるようになりました。
戦後、民国42年(1953年)に松山の地元の紳士と長老の温金波や劉永浩らが資金を調達し、竹を用いて玉皇大帝を祀るため寺を再建しました。そして、「松山奉天宮」と名付けました。民国の48年(1959年)には、永治路に位置する開庵宮の五年千歳が雲林褒忠郷の馬鳴山鎮安宮から分霊されました。参拝客が多いことから、地元の人々は二つの宮に祀られている神々の合併について話し合い、現在の松山奉天宮の場所で土地を拡張し、多くの参拝者が利用できる宮を建設することにしました。
民国56年(1967年)2月には「松山奉天宮管理委員会」が設立され、歴代の委員の甲斐もあり多くの人からの支持を受け、今日では台湾北部で最大の天公廟となりました。各地に名を馳せるようになった本宮には日々多くの参拝客が訪れています。
様々な社会公益活動に取り組み、努力を惜しまない
松山奉天宮は創建以来、文化公益事業に力を入れており、「優秀宗教団体賞」を毎年受賞しています。
毎年、信義区の行政団体とともに冬のチャリティー救済イベントを行い、低所得世帯の方々への慰問金支給、公立・私立の孤児院及び老人ホームへの支援活動を行うほか、公立・私立大学の医療チームが山間の交通が不便な村に医療設備をつくる際の支援も行っています。また、台北市の消防車やリハビリバスの寄贈、ドラゴンボートレース大会・台北ランタンフェスティバルといった文化イベントへの寄付を行うことや、優秀学生や芸文コンテスト優秀者へ奨学金や賞金を授与するほか、台湾の三大博物館(国立故宮博物院、国立自然科学博物館、国立科学工芸博物館)などでパフォーマンスを行う団体に協賛機関としてサポートしています。定期的な支援としては、福徳小学校や瑠公中学校が夜間時に使用する照明の電気代を補助、市民への教育普及活動として仏典クラス・道経クラス、絵画教室、環境教育クラスなどを無料開放するなどしております。